流域はっしん!第5回「人柱伝説~紫川に捧げた三つの命~」

流域はっしん!第5回「人柱伝説~紫川に捧げた三つの命~」
紫川の情報発信イベント第5回流域はっしん!「人柱伝説~紫川に捧げた三つの命~」
8月23日に開催いたしました。
今回は流域に命をささげた昔の人物たちについて紹介いたしました。
①高津尾井堰(たかつおいぜき)
※高津尾井堰については以前の流域はっしん!「高台に水を引いた男」で説明しておりますので、
コチラをご覧ください! 第2回 流域はっしん!「高台に水をひいた男」

②「お糸池」
人柱伝説の残る人工のため池。 伝承では、たびたび田んぼのための水を溜める「稗粉の池(ひえごのいけ)」が大雨のために破堤し、 村の人々は飢餓に見舞われます。堤が切れる度にそれを修復するのですが、食べ物も少ないため、 人々が「稗(ひえ)の団子を食べながら堤の修復をした」ことから稗粉の池と呼ばれました。 毎年、破堤が続き、ついには山や川にある食べられるものを村人同士で争い奪い合うようになります。 そんな日が続く中、村人の話し合いの中で、「人柱をたててはどうだ」という話になりました。 その話を持ち出したのは、夫をすでに亡くしてしまった女性だったのですが、亡き夫が 「人柱をたてることで土手が切れなくなる」と自分に教えてくれたというのです。 当たり前のごとく人柱になろうとするものもおらずじまいでした。 その女性には14歳になる娘がおりました。大変優しく気立ての良いその娘の名は「お糸(おいと)」といいました。 お糸は自分が村を守るために人柱になることを決め、母へとそれを告げます。 母はそれを大変悲しみますが、お糸の強い意志にそれを受け入れるのでした。 お糸が土手へと埋められる際には、白装束、仏装具に身を包み、掘られた穴へと入っていったそうです。 役人が見守り、村民たちの念仏が辺りを埋め尽くす中、しかし、誰一人として土をかけることが出来ずにいました。 そのようにしていると役人は工事頭のものへ最初の土をかけるように促します。 工事頭が最初の土をかけると、ひとつ、またひとつと、皆が土をお糸へかけていきました。 真向いの山でその様子を見ていた母親は、泣き崩れ、お糸の名を呼び続けていたそうです。 その場所にあった石は、今でも「呼石(よびいし)」と呼ばれ、現在も見ることが出来ます。 このような伝承が東谷・呼野地区では残っており、今でもお糸の霊を供養するため、 8月の決まった日に「お糸まつり」と呼ばれる供養祭を行っています。
今回流域はっしん!第5回でこの人柱伝説をテーマにしたのは、8月23日が偶然にも、「お糸まつり」の実施日と
合っていたからです。お糸さんのお墓は池の土手にあり、そして誰もがその「お糸」という女性がいた存在を
忘れずにいるのです。
「恵里の十二土手」
紫川中流域、小倉南区蒲生(がもう)の近くにその場所はありました。〝ありました〟というのは、 今はその場所には、それらしい慰霊碑もなく、またこの〝恵里の十二土手〟関する資料というものが なかなか見当たらないのです。この蒲生に広がっていた氾濫原のどこかにきっと恵里の十二土手はあったものと思われます。 「恵里の十二土手」の〝十二〟という数字、これは人柱にたてられた少女の年齢が〝12歳〟であったということから由来するそうです。 お糸池の資料から、お糸の母親が「人柱による効果の根拠」として、この「恵里の十二土手」のことを引き合いに出していることから、 おそらくお糸池の時代からそう離れていない時期であったと思われます。 しかし、その詳細なことはまったく現在まで伝わっておらず、埋められた人柱の人物が〝12歳〟の幼い少女であった。ということしか 伝わっていません。 どのように選ばれ、どのような人物で、そして埋められていったのか。 人が自然に太刀打ち出来ず、何かにすがる思いで人を犠牲にしようとする時、どのような感情を持つのでしょうか。 もしかすると、後の世へとは伝えたくなかったのではないか、それとも祈りも届かず人柱をたてたことを風化させていったのか、 事実は分かりませんが、その人柱になった人物に思いを向けることが供養になるかもしれません。 もし「恵里の十二土手」に関することを知っている方は、教えて頂けると幸いです。
次回、流域はっしん!第6回は、9月26日(土)に開催いたします。
ぜひ聞きに来てください(^▽^)
こんかいのお話の参考/引用
・「三谷むかし語り(合本第2巻)」/むかし話をする会
・「神、人を喰う」/六車由実
・YAMAP 流域地図
・国土地理院地図

紫川中流域、小倉南区蒲生(がもう)の近くにその場所はありました。〝ありました〟というのは、
今はその場所には、それらしい慰霊碑もなく、またこの〝恵里の十二土手〟関する資料というものが
なかなか見当たらないのです。この蒲生に広がっていた氾濫原のどこかにきっと恵里の十二土手はあったものと思われます。
「恵里の十二土手」の〝十二〟という数字、これは人柱にたてられた少女の年齢が〝12歳〟であったということから由来するそうです。
お糸池の資料から、お糸の母親が「人柱による効果の根拠」として、この「恵里の十二土手」のことを引き合いに出していることから、
おそらくお糸池の時代からそう離れていない時期であったと思われます。
しかし、その詳細なことはまったく現在まで伝わっておらず、埋められた人柱の人物が〝12歳〟の幼い少女であった。ということしか
伝わっていません。
どのように選ばれ、どのような人物で、そして埋められていったのか。
人が自然に太刀打ち出来ず、何かにすがる思いで人を犠牲にしようとする時、どのような感情を持つのでしょうか。
もしかすると、後の世へとは伝えたくなかったのではないか、それとも祈りも届かず人柱をたてたことを風化させていったのか、
事実は分かりませんが、その人柱になった人物に思いを向けることが供養になるかもしれません。
もし「恵里の十二土手」に関することを知っている方は、教えて頂けると幸いです。