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流域はっしん!第2回「高台に水をひいた男」高津尾堰のお話

流域はっしん!第2回「高台に水をひいた男」高津尾堰のお話

2025年 5月28日 13:00 ー14:00


紫川の情報発信イベント「流域はっしん!」第2回です。
今回は小倉南区、紫川上流域にある「高津尾堰(たかつおぜき)」について紹介いたしました。


紫川河口からおよそ14キロ上流。

農業用水を取水するために今も活躍中。
なんの変哲もない取水堰かと思いきや、ここには昔、
とても強い意志で引かれた用水路工事の逸話があったのです。

と、その前に場所の説明が必要です。

高津尾堰から約2キロ下流。
そこには高津尾という地域があります。

道原・山本の玄関口にある稗畑山(ひえはたやま・234m)の麓にある。

紫川・東谷川と、水量も豊富なふたつの川に挟まれた土地であるにも関わらず、
この場所は川から水をひくことが出来ないのです。
それはなぜか。地図では分かりにくいですが、ここは川からはとても高い位置にあるのです。
川から10メートル以上、標高の隔たりがあります。


近くに川があっても、場所が高いと水を得られません…。

地図から稗畑山の沢がひとつ高津尾へと伸びているのが分かりますが、
それでは高津尾の畑々を潤すに足りなかったのです。

さて、ここから高津尾堰の逸話についてです。

1570年ごろ、水利的に不利であった高津尾村は、米が作れず、稗(ひえ)や蕎麦(そば)を細々と作る貧しい村でした。
しかし、その苦しい状況を変えたいと思った心吉という若い森長(今でいう町内会長のようなもの)が、
「紫川から水を引こう」と考え、それを10年の歳月をかけ、そして見事その悲願を達成したのでした…。

つまりは、目の前の川からは引けないから、勾配の高いもっと上流から水を引こう!というアイデアです。

単純なようですが、機械も測量技術も昔の技術力からするとこれは途方もないお話です。

様々な障害を乗り越え、ようやく高津尾まで用水路を通した心吉たちでしたが、
通水時に水が高津尾まで届かなかったことから、「通水することに命を懸ける」という隣村の森長との
約束を守れず、心吉は磔にされ亡くなってしまいます
しかし、その後大雨が降ったことで紫川の水かさが増し、無事に高津尾村まで水が達した、というお話です。


現地に赴きその軌跡を辿る

ここは東谷川と高津尾の用水路の合流点、なんの変哲もない用水路からの注ぎ込みのように見えますが
本来はここへ流れつくはずのない流れなのです。ここからスタートし井堰まで遡っていきたいと思います。

合流点の上の道から高津尾を望む。

下の写真は高津尾の田畑の一番上にあたる場所です。この辺りから水は分かれて田畑を潤していきます。
ちょっと分かりにくいですが、ブロック塀上の溝が井堰から引かれた用水路で、
「水は写真の右から左へと流れています」。
高津尾から緩やかな勾配を保ちながら流れてきた水の流れに、なんだか少し違和感…。
上流から勾配を意識してここまで水を運んでいる用水路は、
そのためか、写真手前側の黄色いラインの入った坂の下っていく感じと比べると、
塀の上の溝は写真の左に行くにつれて、「少し上っている」ようにも錯覚してしまいます。
まるで福岡県岡垣町にある「ゆうれい坂」のようです。坂を上る水…。
個人的にここを「小倉のゆうれい坂」と呼ぶことにしました。

高津尾へと遡る。山裾ぎりぎりを用水路がはしっています。右側はころげ落ちそうな斜面。

この先は高速道路があり、迂回しなければなりませんでした。水路は高速の下を通っています。

左手に高速道路。遠く山裾に用水路がひかれています。
高津尾のお話では、心吉たちは勾配を保つために同じ高さに切った棒に灯篭をつけて、
それを持ったうえ工事のコース上に立つことで勾配を図ったそうです。
遠くから見ないと確認できないことを思うと、心吉たちもこの辺りから用水路の方を見ていたのかなと思い馳せます。

さらに遡っていくと、「西大野八幡神社」が現れ、水路はその境内の中を通っていきます。
西大野八幡神社はもともと「大野八幡神社」として666年より先述の稗畑山の7合目山腹にあったそうで、
戦火の災難などありながら、「東大野八幡神社」と分社し、「西大野八幡神社」となり1666年にこの場所へと位置した。
用水路工事の完了が1580年頃(天正年間)のため、水路の方が先に通っていたことになります。

※ちなみに初めて日本から欧州に飛行した飛行機のプロペラが奉納されており、別名「飛行機神社」とも呼ばれています。
プロペラは飛行機「東風号」のもので、操縦士の河内一彦氏が道原出身であることから奉納されたものです。

遡っていく。用水路は山裾に沿うように上流へとさらに伸びています。

そのまましばらく上流へと歩いていくと、ようやく高津尾井堰が見えてきました。

井堰の上流右岸に取水口。草が茂っており、取水口自体は確認できませんでした…。
作られた当時とは形や経路は変わっているかもしれませんが、今もこの井堰から取水し、
自然落水だけで、高津尾まで水を届けているのです。

約2キロの道のりですが、工事満了までおよそ10年。
山本村森長からのいくつもの難条件や、技術的な問題を乗り越えてこの用水路を通水させたことは
凄いというほか言葉がありません。
残念なことは、この用水路の通水を夢見た心吉は、その悲願の成就を見ることが出来なかったことですね…。

しかし、心吉の行いは人々の心を打ち、人々はこれを後世に語りつぐため、
導水事業に命を燃やした心吉を祀り、高津尾の村の上に「意吉神社」を創建しました。

今は紫川から流れてくる水によって潤された田畑が秋になると黄金の稲穂を実らせています。
心吉が神社からそっと高津尾の村を見守ってくれているかもしれません。

 

 

以上、第2回のまとめでした。
次回は「紫川の始まる場所、〝頂吉〟のヒミツ」をお届けします。

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